2010年9月27日月曜日

The Player

Robert Altman 監督、Tim Robbins 主演の1992年作品。
 ハリウッドを舞台に繰り広げられる映画配給会社関係者たちの権謀策略にスポットをあてたブラック・ユーモア満載のサスペンス。
 "within 25 words" と言われながらそれを遥かにオーバーし、延々と熱弁をふるう脚本家たち、そのスピーチで採用不採用を判断する配給会社の重役たち(年間約5万の応募の中から彼らが選べるのはたった12本)、挙句の果てには、会社側の人間が「脚本家の時代は終わった、俺たちが脚本を書けばいい」と言い出す始末。90年代以降ハリウッドの主流となった「脚本家不要」あるいは「脚本のおいしいどころどり」を予言していて興味深い。“The Match Point”の主人公よろしく、Tim Robbins 演じる主人公は、強力な運に味方されて殺人の容疑を免れ、古い女を捨て、新しい女と幸せな家庭を築き、会社社長となる。そして、ストーリーの芯を貫くのが、主人公宛に脅迫状を送り続ける姿なき知能犯。
 この映画の中では、才能なきものは容赦なく犬死にし、あるいは地位を剥奪され、捨てられる。稀にみるブラックな映画である。面白かった。ハリウッドだけあって、カメオを彩る出演陣も豪華。

2010年9月25日土曜日

Barnett Newman展にて

 「太陽を曳く馬」を読んで以来、念願の佐倉・川村記念美術館に遂に行ってきた。天候はあいにくの雨、それでもフランク・ステラらの屋外オブジェに迎えられると胸が高鳴る。以下そのレポートを…。

1. Rothko Room
六角形の部屋の各壁面に掲げられた“Seagram” 壁画群の一部。(他はD.C. のNational Gallery とロンドンの Tate Modern に散在) 表象だけをとらえるならば、いずれも二色構成、四角の中の四角でしかないが、色使いや枠組みの歪み・にじみ具合にみる個々の作品の意味性、作品の中の2種類の色と四角の主従関係や時系列、作品同士の関係や時系列などなど、見るもののイマジネーションを否が応にも刺激する。これらの作品群はまるで壁面に備え付けられた窓、しかしながら、そのダークな色づかいが表すように、決して開放感の象徴としての窓ではない。むしろ、監視と絶望(の可視化)といった閉塞感の象徴としての窓ではなかろうか?しばし一人展示室にたたずみ、作家との対話を試みようとするも、その重厚さに圧倒されるのみであった。

2. Barnett Newman 展
 Rothko と並んで20世紀の最重要アーティストの一人、Newman。彼の往年の作品は「ジップ」とよばれる縦線で巨大キャンバスを区切り、ただひたすら単色でペイントするという独特の作風で知られる。鮮やかな配色と明確な区切りはRothko 作品と対象的である。饒舌な彼は、自身の作風やその背景についてもかなりオープンにしているので、以下その一部を紹介しよう。
 ⅰ)Newman の原点は、第二次世界大戦以降、当時の世界の負の部分に目晦ましをした風景画、あるいは夢想に逃避したキュビズム、シュールレアリズムを嫌い、全く新しい絵画をスタートさせようと試みる。いわば、絵画をゼロの地平にリセットする試みである。
 ⅱ)作品のタイトルはその時その時の心象風景を表し、意味性を持たせる記号的なものである。
 ⅲ)自己を認識してはじめて、他者を認識でき、そして他者とのつながりを構築することができる。
 3点目はジップスタイルを理解するうえで、非常に重要だと思われる。「原初の光」や「アンナの光」の「ジップ」とそれに区切られた長方形が表象するもの・・・。
 Newman は非常に強烈な思想家だと思う。

3. Others
 ピカソ、レンブラント、モネから、ルネ・マルグリット、マックス・エルンスト、さらにはポロックまで17~20世紀の大物作品を堪能できる非常に贅沢な美術館であった。
 またフランク・ステラの巨大作品群専用の一室が設けられているのも特筆すべき点である。

2010年9月24日金曜日

「太陽」を曳く馬

 高村薫氏の最新作。(篠田節子「仮想儀礼」をエントリーの際に予告しておきながら、アップが大幅に遅れたのは全く以て不甲斐ない限りである。)
 「晴子情歌」「新リア王」に続く福沢家三部作の完結編にして、刑事・合田雄一郎シリーズの最新作(これも最終作らしさを漂わせている)。
 42歳になった合田は、元来の一匹狼的資質が特化、内向的中年として描かれ、鬱病の兆候も出始めている。対照的に、合田の新しい部下・吉岡は頭は切れるものの、かつての部下・森のような苦悩・コンプレックスといった内面の深みはない。(そこそこのところまで切り込むがそれ以上突き詰めようとしない「ステンレスナイフ」のような切れ味、錆びはしないが磨かれもしない、と合田は唾棄する。)彼の唯一の理解者・加納も合田の脳内~加納宛の手紙や独白~でしか登場してこない。非常に重苦しい小説である。が、読めば読むほど味わい深く高村小説の到達点といってもよい作品である。
 合田シリーズの前著「レディ・ジョーカー」(以下LJ)では、人間とは感情の産物である、の旗印のもと、登場人物の感情が横溢・交錯したのに対し、本作ではその感情の原初にあるもの、すなわち、自己とは何か、言葉とは何か、人間はなぜ生き、問いかけるのか、といった決して答えのない禅問答的世界へと読者を導いていく。オウム、さらには9.11を通過して高村氏の到達したのは、まさに現代版「死霊」ともいえる形而上学的小説であり、絵画でいえば、第二次世界大戦を通過し、それまでの絵画表現をリセットしようとしたバーネット・ニューマンの試みと通底するものがある。本作においては、高村氏の代弁者である合田雄一郎は「か・か・か・・・」と言葉にならない吃音を発し、言葉の生まれる前の世界に一人立ち返り、元住職にして死刑囚の父親である福沢彰之は息子に宛てた書簡の中で、息子が何を見、何を描いたか、という心象風景を言葉にし理解しようと努める。(そしてそれらはおそらく一方通行で終わると思われる)そして、物語の舞台である都内の禅寺においては、元オウム信者の雲水の処遇をめぐり、宗教としてオウムをどうとらえるか、宗教の根源にかかる問答が織り成される。
 こうして本作では、いくつもの問いかけと議論が重層的に展開してゆくが、最終的に、真実と虚構が、自己と他者が、ニューマンの絵のごとく明確に線引きされることはない。むしろ表紙にも使われているマーク・ロスコの壁画のように靄のかかった状態で、世界は、そして我々は放置される。が、幾多の議論がここで水泡に帰するわけではない。「最終的に言葉を持つものが強い」(筆者談)という信念のもと、今という時代を必死で再構築しようとした最高の産物ではないか、と私は思う。(このような陳腐な表現をお許しいただきたい。ロスコやニューマンの作品とともに、仏教界の古典に触れないと、この話の真の深みを理解できていないのでは、という気がしている。)

2010年9月20日月曜日

『ザ・風景』

 名古屋ボストン美術館にてつい先週まで行われていた主にUS、UKの現代アーティストの先鋭達の作品展。Ross Bleckner のサイケ模様の平面表現(「物の配列」)から、Andy Warhol と並んでポップ・アートのアイコン的存在である Roy Lichtenstein の精緻なドットをキャンバスに落とした絵柄的表現(「海の風景」)、よく見ると絵が細かいメモ書きで埋め尽くされているスティーブン・ハノック「オックスボー」、ロールシャッハ・テストの陰影のように陰影表現が巧みなキャサリン・マーフィ「カーテンのかかった窓」、まるで写真のようなジョエル・ジャノヴィッツ「Playground」などなど、風景画として一括りにするのは無理があるようなバラエティ豊かな作品群が並ぶ。風景画というより、現代絵画のショーケースとして楽しめる。(ちなみに展覧会の英語表記は「Changing Soil: Contemporary Landscape Painting」)表現の仕方は違えど、いずれも人間の2つの目を通して見たものを平面に落とすという作業の結実であり、それにより我々の創造力を掻き立てられる、という作用自体は変わらない。
 なお、同時開催の「時の遊園地」では国内現代作家をフィーチャー、照明に群がる虫たちを延々とうつした映像作品が印象に残った。

2010年9月6日月曜日

化野念仏寺



 少々遅くなったが、夏真っ盛りの京都に行ってきたのでそのレポートを。(9月に入ったとはいえ、昨日も京田辺市で9月観測史上最高の39.9℃を記録するなど、京都はまだまだ暑い!今年が異常なのか、これがNew Normal となるのか…)
 今回のメインは立派な竹林と無縁仏で有名な化野念仏寺。一歩入れば、そこには空海の時代から時が止まったかのような幻想的な風景が垣間見られる。ちょうど行った日の数日後には、これら無縁仏にろうそくを灯す「千灯供養」が控えているようだ。夜の光景も一度見てみたいものである。念仏寺のある区域一体はまちなみ保存地区に指定されており、風情豊かなお土産屋、お茶屋、懐石料理店などが軒を連ねる。猛暑の中、愛宕山を目指して汗だくになりながら歩くハイカーたち。私は軟弱にも車で入ったのだが、観光案内所兼有料駐車場のおばさんの親切さも忘れ難い。