2010年2月14日日曜日

ネット社会と宗教と小説と

「仮想儀礼」 篠田節子(2009)
 
 遅まきながら09年屈指の話題作2作について。
 
 9・11を境にどう行動したか?オウム事件を宗教としてどう整理するか?テーマは奇しくももうひとつ取り上げようとしている高村薫「太陽を曳く馬」(次回以降アップ予定)と全く同じである。ネットの伝播力をすでに取り込んだ「ロズウェルなんか知らない」の劇場化社会事件をさらに深化し、起業対象としての宗教、宗教に依存する経営者の孤独とそれを冷ややかに見つめる社員、ジェンダーやジェネレーションによる目に見えない(直観的な)摩擦、家庭環境など共通項を持つもの同士の団結力、持たざるもの間の摩擦、といった様々なテーマを散りばめて破滅に向けた物語が展開される。
 そもそも宗教とは何なのか?この物語では、確固たる教義、起源、神など存在しなくても(主人公たる創始者に関してはポリシーすらもない)、それをよりどころとする人々の手によって成長し、転がされていく共同幻想に過ぎない、という新興宗教独特の危うい側面が余すところなく描写されている。傍から見れば、非常に滑稽でシュール、できれば関わりたくない、オウムや9.11を通過した我々の「宗教」に対するスタンスもほぼこの物語どおり、といってよい。とにかく非常に現実と非現実のバランスが絶妙、宗教内部なら有りうべき話かな、と思わせられる秀逸なエンターテイメント作品であった。(最後の方の女性信者の淫らな暴走はやりすぎ感もありいただけなかったが・・・)
 蛇足であるが、某巨大カルトをモデルにしたに違いない大物宗教家(こんなの描いて大丈夫?篠田さん)が一番怖い存在であった。

アンチヒロインと地回りミステリーの真髄

「生首に聞いてみろ」 法月綸太郎(2002)
 トリック的には芸術家にしかわからない部分も多く、死者の交代や抜歯による骨格の変化などやや強引なプロットを多用している感が否めない。にもかかわらず十二分に楽しめた。この作品において特に気にいった点は二つある。
 まずは、アンチヒロインの物語であること。序盤では登場回数とセリフの多さ(しかも優等生っぽくウザい)から名探偵・法月の右腕となるヒロインキャラになるのでは、と思われた女子大生・江知可は、無残に殺され、生首が宅配便となって届けられる。しかも目を見開いたメデューサのような姿で・・・。あとのキャラははっきり言って曲者あるいは悪人ばかり。決して正義の物語ではない。
 もう一点は実在する都市のディテールに抜かりないこと。小説では町田・八王子・名古屋が主な舞台となるが、八王子・鑓水や黒川紀章デザインの名古屋市美術館といった隠れた名所の解説に当該地に対する愛情がうかがえる。
 そういった意味では、展覧会の準備のために名古屋市美術館に赴いた「個展オーガナイザー」(登場人物としては3・4番手程度、商業主義の権化)のもとに生首が届けられる一部始終を描いた中盤数頁の“Interlude”こそこの小説の白眉。ここで初めて「事件」は起こり、物語も一気に加速する。
 エラリー・クイーンの影響下にあることを公言している筆者であるが、クイーン小説の名物「読者への挑戦」に代わり、主役外に視点を移し事件を投影するという高度な手法を難なくやってのけている。

2010年2月7日日曜日

賢人の警鐘より~半ば妄想

 人間が筋肉労働に代わるものとして動力を手に入れたのが産業革命。
 頭脳労働を代行(特に記憶の部分)するようになったのがIT革命。
 肉体・頭脳とくれば次は精神であるが、どのような形の革命が予想されうるだろうか?
 人間の精神にとって代わるもの・・・精神的負担を軽減あるいは除去してくれる魔法の道具。
 ドラッグ・アルコールなど向精神的な物質は既に昔からあるが、それらは一時的に仮想の自己精神を作り出すだけであって、誰か(何か)が自分の精神を代行してくれるわけではない。
 ネット内部のみで完結するバーチャルな人間関係。精神的負担が人間関係の摩擦から生じるものと仮定すれば、それも有りかもしれないが、コミュニケーションという行為が存在するかぎりは、精神の拠としての人間は必要である。
 完全なる無に近づく世界。宗教はどうか?これも前出のドラッグと同様、誰かが精神的負担を代行してくれるわけではない。(何かを捨てる~イスラム原理主義テロリストの場合それが命にもなるわけだが~という犠牲を伴うと同時に、何かに依拠することにより新たなる精神を付与されるに過ぎない。)
 ロボトミー…これも何かを喜捨しなければならないだろう。
 最後にクローン技術。生きる意志を保ちつつ、精神的に滅入って来たら、いつでも他の肉体に乗り移れる。これが一番「精神代行」と呼ぶに近いかも知れない。電気羊の夢を見る未来人…ゾッとする話であるがあり得ないことはない。

時代と寝た漢~朝青龍

横綱・朝青龍が電撃引退した。
 初場所で優勝した直後、白鵬には昨年から(本割で)7連敗中だったものの、まだまだ余力を残しての引退だけに、史上最強横綱という幻想は今後必ずや角界そして彼の周りについてまわることであろう。
 暴行事件の真相や今後の身の振り方についてはゴシップ報道に任せるとして、内舘牧子氏に「アスリートとしては一流だが横綱としては認めない」と最後っ屁をかまされた朝青龍の功績を振り返りながら、角界に残したものについて論じてみたい。
 ちょうど貴乃花が引退した2003年に横綱に昇進した朝青龍。その豪放磊落な取り口と私生活、不遜な言動は、前時代を牽引した優等生・貴とは正反対、まさに“リアル播磨灘”であった。伝統やしきたりの名のもと閉塞感が漂う角界に風穴を開けた彼は、00年代の角界の象徴にとどまらず、当代きってのヒーロー(ヒール)であった。そんな彼に足を引っ張られるように00年代の角界はかつてないほど負の連鎖に見舞われ(朝関の仮病疑惑、八百長暴露、暴行死事件、薬物汚染…)、日本相撲協会の評判は落ちるところまで落ちきったと言ってもよい。不祥事のたびに改革・改革と叫ばれ続けてきたが、協会のドル箱でもある横綱をコントロールできないようでは、真の改革はありえない。モンゴルの大草原を走り回っていた少年は、その奔放さのまま強さを追及し続け、いつしか協会の枠におさまりきらない存在になってしまったのである。
 しかし土俵上では、彼が(不甲斐ない)日本人以上に「相撲道の発展」に寄与したのはまぎれもない事実である。2年前の楽日決戦で日本人がいなくとも感動を呼び起こすという偉業をやってみせ、角界は新たなフェーズに突入した。時代を前進させるのは常に朝青龍のような異端児である。(白鵬のような優等生ばかりでは業界は発展しない。白の強さが引き立つのは青がいてこそ。)
 土俵上では相撲道を発展させる一方で、土俵外では相撲界の地位を著しく貶めた稀代の横綱。いずれにせよ、次の大阪場所はかつてないほどの大きな喪失感が土俵を覆うに違いない。そして、貴乃花新理事に期待するよりも何も、次代を担う現役力士が出てこない限り、2010年代の角界の先行きは暗いとしかいいようがない。(最後の日本人横綱対決が91年夏の北勝海―旭富士以来更新されてないのは悲しい限りである。)