高村薫氏の最新作。(篠田節子「仮想儀礼」をエントリーの際に予告しておきながら、アップが大幅に遅れたのは全く以て不甲斐ない限りである。)
「晴子情歌」「新リア王」に続く福沢家三部作の完結編にして、刑事・合田雄一郎シリーズの最新作(これも最終作らしさを漂わせている)。
42歳になった合田は、元来の一匹狼的資質が特化、内向的中年として描かれ、鬱病の兆候も出始めている。対照的に、合田の新しい部下・吉岡は頭は切れるものの、かつての部下・森のような苦悩・コンプレックスといった内面の深みはない。(そこそこのところまで切り込むがそれ以上突き詰めようとしない「ステンレスナイフ」のような切れ味、錆びはしないが磨かれもしない、と合田は唾棄する。)彼の唯一の理解者・加納も合田の脳内~加納宛の手紙や独白~でしか登場してこない。非常に重苦しい小説である。が、読めば読むほど味わい深く高村小説の到達点といってもよい作品である。
合田シリーズの前著「レディ・ジョーカー」(以下LJ)では、人間とは感情の産物である、の旗印のもと、登場人物の感情が横溢・交錯したのに対し、本作ではその感情の原初にあるもの、すなわち、自己とは何か、言葉とは何か、人間はなぜ生き、問いかけるのか、といった決して答えのない禅問答的世界へと読者を導いていく。オウム、さらには9.11を通過して高村氏の到達したのは、まさに現代版「死霊」ともいえる形而上学的小説であり、絵画でいえば、第二次世界大戦を通過し、それまでの絵画表現をリセットしようとしたバーネット・ニューマンの試みと通底するものがある。本作においては、高村氏の代弁者である合田雄一郎は「か・か・か・・・」と言葉にならない吃音を発し、言葉の生まれる前の世界に一人立ち返り、元住職にして死刑囚の父親である福沢彰之は息子に宛てた書簡の中で、息子が何を見、何を描いたか、という心象風景を言葉にし理解しようと努める。(そしてそれらはおそらく一方通行で終わると思われる)そして、物語の舞台である都内の禅寺においては、元オウム信者の雲水の処遇をめぐり、宗教としてオウムをどうとらえるか、宗教の根源にかかる問答が織り成される。
こうして本作では、いくつもの問いかけと議論が重層的に展開してゆくが、最終的に、真実と虚構が、自己と他者が、ニューマンの絵のごとく明確に線引きされることはない。むしろ表紙にも使われているマーク・ロスコの壁画のように靄のかかった状態で、世界は、そして我々は放置される。が、幾多の議論がここで水泡に帰するわけではない。「最終的に言葉を持つものが強い」(筆者談)という信念のもと、今という時代を必死で再構築しようとした最高の産物ではないか、と私は思う。(このような陳腐な表現をお許しいただきたい。ロスコやニューマンの作品とともに、仏教界の古典に触れないと、この話の真の深みを理解できていないのでは、という気がしている。)
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